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(書評)「かくれんぼ」ができない子どもたち

著者:杉本厚夫

「かくれんぼ」ができない子どもたち「かくれんぼ」ができない子どもたち
(2011/01)
杉本 厚夫

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「子供は社会の鏡」と言われる。基本的に、子供そのものは変わっていない、という前提に立てば、それは社会が変わった、ということになる。そこで、子供の遊びに反映される社会の問題を明らかにし、再び子供の遊びを子供の視点で明らかにする。
ということで、前半は、子供の遊びの具体的な現象から社会を読み取る。そして、後半は著者が行っている活動を中心に、その解決などを図る、という構成。
うーん……読んでいて、まず感じたのは「納得できない」、という感情。特に理論編といえる前半。
前半は、ある現象について、社会学などの理論を当てはめながら、「こうなのだ」という風に説明をしていく。ところが、その現象などについて前提となる部分について具体的なデータなどがなく(あったとしても、近年に行われた単発調査で過去との比較がない)「~といわれている」「~と実感している」といったものばかりであるから。しかも、151頁の「現代社会では、虐待やネグレクトに見られるように、子どもを邪魔者扱いする親が増えている」なんていう、明らかにおかしな部分もあるので余計に(虐待が増えた、といわれるのは、虐待が悪いことである、という社会の認識が高まったことで発見されやすくなったため。それこそ、かつては「口減らし」のために子供を殺す、とかはあったし、また、戦後の犯罪統計を見ても「親に殺される子供」は近年になるほど減っている) そのため、我田引水な論理展開に感じられるのである。
また、ある程度、仕方がないところがあるにせよ、あまりに物事を単純化しすぎているところも感じる。
読んでいて、著者はテレビゲームとか、そういうものに詳しくないのだろう。そのため、身体を使った遊びなどについて随分と短絡的に語っているな、と感じるところがある。
例えば99頁~100頁。遊びは仮構か虚構か、という部分。「たことタヌキ」という遊びを題材に、遊びに現実社会が紛れ込んでいる、という。それに対し、PCゲームは虚構空間で完結し、現実社会を一切反映しないという。……本当か?
確かに、相手を叩く、というようなことはしないので、その点での加減などはない。しかし、対戦型ゲームであればどうしても相手プレイヤーという現実社会が加わる。友達と対戦ゲームで勝負するのに、卑怯な技ばかりつかっていたらやはり喧嘩になるだろう。
また、ブランコなどは勝ち負けそのものより過程や結果として得られる身体的な心地よさが良い。しかし、ゲームは競争型の遊びで結果に拘る遊びだという。これも疑問である。
確かに、勝負などの要素がある以上、結果を求めることが目的の一つではある。しかし、それだけのゲームってあるだろうか? 例えば、レースゲームであれば技術が高くなり、早く走れれば勝てる。しかし、勝つことと同時に、その中で体験するスピード感などが心地よいから楽しいと思う。下手だと、そのスピード感が得られない。『ぷよぷよ』などのパズルゲームにしてもそう。大きな連鎖を決めれば相手に勝てる。しかし、同時に、画面いっぱいにつまった「ぷよ」が一気に消滅していく爽快感を楽しんでいる。ただ勝ち負けってだけで、そういう要素がないゲームって……楽しいか? と疑問に感じるのだが。挙句、こまったらリセットすれば良い、的な発想は何だかな……と感じてしまう。
そして、それを受けて後半は著者が行っている活動の紹介と、こういう風になった、というもの。
別に、そういう活動をする機会を作ること自体は良いと思う。
ただ、こういう風に行っていた、こういう風に見えた、的なものって、結局、企画する側の視点でしかない、という欠点も持っているように思う。つまり、著者が良い、というものが全肯定できるものとは言えないと考えること。
例えば、「平等」という概念で「みんなが同じ量という発想なのが、それを取っ払い、Aさんはこういう事情があるからこの量、Bさんは……」となった。紹介されている内容で見ると良いことだと思う。ただ、日常の中では嫌がおうにも物理的な距離とかの観点からある程度の規模の社会というのが出来る。そして、その中でその仕組みが取り入れられると力が強いものが全部持っていって……的なことも起こりえる。その意味ではイベント的な感が否めない、と思う。
前半についてはかなり疑問。後半は、前半のこともあり、活動そのものはともかく、著者の主張を素直に受け入れづらかったな、という感想になる。

No.2744

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