著者:岡田尊司


本書は2005年にちくま新書として刊行されたものを改稿、再編集したもの。実は、私はそのちくま新書版も読んでいる。ただ、それから10年余り、当時は『脳内汚染』という疑似科学書を読んだついでに、その前に書かれたものも、ということで読んだ。その後も著者の書を何冊か読み、その言動などを知った当時とは多少、感想が異なるかもしれない、という理由で読んだ次第。
当時に読んだとき、私は「結局、だから何なの?」というのが第一の感想だった。では、今回は何だったか? というと……
「だから何なの?」
ってことだったりする。つまり、感想は同じ、っていうこと。なぜ、そうなるのか? を説明したいと思う。
まず、前提は正しいの? という疑問があること。著者は、近年、不可解な動機で起きる事件が目立っている、という。しかし、その点について、著者がするのは「この事件の犯人は誇大自己症候群」「この事件の犯人も」「この犯人も」と連呼していくのみ。しかし、それって「増えている」という根拠にはなっていない。個別ケースを並べても、都合の良いものを並べただけ、という解釈が可能だから。そもそも、「不可解な動機が目立つっていうのは悪いことなのだろうか? 『戦前の少年犯罪』(管賀江留郎著)とか、『「昔はよかった」と言うけれど』(大倉幸宏著)など、過去の事例を調べた書を見ると、本書で書かれたような動機の犯罪やトラブルは決して少なくなかったことがわかる。一方で、近年、犯罪自体は減少傾向にある。つまり、昔から一定数はそんな犯罪があったけど、近年の犯罪減少の中で目立ちやすくなっただけではないのだろうか? ということを思ってしまうわけである。近年、毎年のように犯罪の戦後最少記録を更新しているのを前提に考えるなら、である。
次に、「そもそも誇大自己症候群って何なの?」っていう疑問である。「根拠がないのに、異様にでかい自己愛を抱えている存在」という極めて大雑把な定義は示すのだけど、では、「どういうのが誇大なの?」「どこまでが適正なの?」と思うわけである。判断基準とか、そういうものを示すことなく、ただ「この人は誇大自己症候群」とだけ連呼されても……。さらに、親の過保護や虐待、世間のヴァーチャル化などによって育成される、と言ったと思ったら、発達障害も原因になる、と言い出したり、さらに一世を風靡した経営者や、有名スポーツ選手が起こした事件を出して、社会的な成功によって万能感を醸造したと言い出す。さらに、近年、犯罪の質が変わった、という一方で従来の暴走族が警察などを相手に危険な暴走を繰り返すのも、それをすることで万能感を味わっているから、という。これを読んでいると、結局、何でも誇大自己症候群の原因になり得るし、どんな人だって「誇大自己症候群だ」とレッテルを貼ることができるんじゃないの? という感じになってくる。判断基準とか、そういうものを示すことなく、ただあっちにふらふら、こっちにふらふらと話がブレまくっているだけ、と感じるわけである。
そして、本書の中で出てくる「誇大自己症候群」の人の事例は、本当に信頼できるのか? という問題。
カリグラ、ネロ、織田信長、豊臣秀吉、チャーチル、ビル・クリントン、ニーチェ、ブッダ、シュティルナー、アウグスチヌス、監禁王子、小林薫、宅間守、三島由紀夫、檀一雄、バラク・オバマ、ドナルド・トランプ、ワグナー、サルトル、大王製紙の元会長(会社の金でカジノ行ってた人)、ビル・ゲイツ、ジョージ・ソロン、ニック・リーソン、山崎晃嗣、ヘミングウェイ、横井英樹、O・J・シンプソン、マイク・タイソン、マハトマ・ガンジーなどなど……
これはすべて、本書の中で著者が「誇大自己症候群」というレッテルを貼り付けた、著者があったこともない人間である。それぞれのエピソードを持ち出して、このようにして誇大自己症候群になったのだ、ということを述べるのだが、巻末の参考文献を見るとせいぜい1冊か2冊、自伝とか評伝を読んだだけである。つまり、多角的に、その人物の成育歴などを調べたわけではない、ということだ。例えば、ドナルド・トランプ氏についての論拠は、1987年に刊行された氏の自伝。しかし、この自伝について、執筆を担当したライターが「あの書は嘘だらけ」と告白したのは記憶に新しいところ。
まぁ、積極的に嘘をついたケースは少ないかもしれない。しかし、結果的に「事実ではない」ことは少なくないだろう。例えば、ビル・クリントン氏についた部分では次のようなことを言う。少年時代、肥満児で運動神経も悪く、女の子からも全く相手にされなかったクリントン氏。しかし、そんな時代に、ケネディ大統領と会う機会があり、そのとき、自分も同じような存在になると決めた、という。冴えない少年がそんなことを言うのは誇大自己症候群だ、というわけ。でも、これはどこまで正しいのだろう? 冴えない少年だった、ケネディにあった、というのが嘘とは思えないし、おそらく、その邂逅であこがれ、ターニングポイントになったのも事実だろう。でも、本当にその時、「自分もなる」と決意したのだろうか? これを語ったのは、大統領になった後である。人間というのは、自分の記憶すら、自分に都合の良いように書き換えることがある、というのはよく知られたこと。「なりたいな」と思った、というのが、実現の可能性が高まる中で、当時からなるんだと決めていた、という風に自らの記憶を書き換えた、ということがあるかもしれない。積極的な嘘ではないにしろ、こういうものをもって「過去からこうだった」というのは危うい論法と言えよう(一応、言っておくとクリントン氏が本当に子供時代に、なるんだと決めた可能性だってある。ただ、内心の問題であり、かつ、記憶が曖昧というのを考えみると、本人が言っていたからと言って絶対にそうだ、と断言するのは不可能、ということ)
そもそも、先に書いた本書で事例が出る人々について、著者は会ったことすらない。自身の著書にしても、はたまた、様々な文献記事にしても、どこまで正確なのかわからない。それをもって、こうだ、というのは問題と言えるだろう。
最後に、先に書いたように「親の過保護によって」「親の虐待によって」「愛着生涯によって」「発達障害によって」「子どものころ、優等生だったから」「仕事で優秀な結果を出したから」などなどと次々と誇大自己症候群の原因を挙げていくのだけど、じゃあ、そんな人がいなかった時代、地域ってあったのかいな? という気分になってくる。著者は、ネットとか、そういうものによって人間関係が希薄になって、とかいうのだけど、虐待とか、そういうものはむしろ人間関係の深かった昔の方が多かったのだし(虐待そのものの統計はない。しかし、嬰児殺とか、親による子殺しなど虐待の結果の事件といえるであろうものは昔の方がはるかに多かった) また、昔はそんなに親の教育が立派だったのか、というのも疑問で、広田照幸氏の『日本のしつけは衰退したか』や、はたまた、先に書いた大倉氏の著書などを見れば、子供は親の所有物でまともな教育などもせず、ただ放置したり、場合によっては強制的に労働させたり、というのも多かったことがわかる。著者のいう「昔」は本当に存在したのだろうか?
ということで、そもそもの定義が曖昧なため、何にでもレッテルを貼ることができるだけだし、しかも、克服云々にしてもそんな時代がそもそもあったのか? という疑問が浮かぶだけ、という評価にならざるを得ない。
というところまでが直接の感想なのだけど、本書を読んでいてそのほかの部分で思ったことを1つ。
著者は、少年犯罪の質が90年代から変質した、というのだけど、著者が京都医療少年院に勤務するようになったのは1993年から、だとのこと。「犯罪の質」なんてものは、そもそも統計とかで測れるものではないし、基準もないもの。私は「実感」というものを全く信頼していないのだけど、93年からの勤務しかしていない著者は、そもそも「以前の少年事件の犯人」とのやりとりもほとんどない、ってことになる。それでどうして「質が変わった」とか言えるのか? と。
著者は『脳内汚染』シリーズと言えるような書籍なども書いているけど、過去とは違っている、というのは「過去はこうだったはず」という実感ですらない想像で語っているのではないか、ということを考えてしまった。
No.4316

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本書は2005年にちくま新書として刊行されたものを改稿、再編集したもの。実は、私はそのちくま新書版も読んでいる。ただ、それから10年余り、当時は『脳内汚染』という疑似科学書を読んだついでに、その前に書かれたものも、ということで読んだ。その後も著者の書を何冊か読み、その言動などを知った当時とは多少、感想が異なるかもしれない、という理由で読んだ次第。
当時に読んだとき、私は「結局、だから何なの?」というのが第一の感想だった。では、今回は何だったか? というと……
「だから何なの?」
ってことだったりする。つまり、感想は同じ、っていうこと。なぜ、そうなるのか? を説明したいと思う。
まず、前提は正しいの? という疑問があること。著者は、近年、不可解な動機で起きる事件が目立っている、という。しかし、その点について、著者がするのは「この事件の犯人は誇大自己症候群」「この事件の犯人も」「この犯人も」と連呼していくのみ。しかし、それって「増えている」という根拠にはなっていない。個別ケースを並べても、都合の良いものを並べただけ、という解釈が可能だから。そもそも、「不可解な動機が目立つっていうのは悪いことなのだろうか? 『戦前の少年犯罪』(管賀江留郎著)とか、『「昔はよかった」と言うけれど』(大倉幸宏著)など、過去の事例を調べた書を見ると、本書で書かれたような動機の犯罪やトラブルは決して少なくなかったことがわかる。一方で、近年、犯罪自体は減少傾向にある。つまり、昔から一定数はそんな犯罪があったけど、近年の犯罪減少の中で目立ちやすくなっただけではないのだろうか? ということを思ってしまうわけである。近年、毎年のように犯罪の戦後最少記録を更新しているのを前提に考えるなら、である。
次に、「そもそも誇大自己症候群って何なの?」っていう疑問である。「根拠がないのに、異様にでかい自己愛を抱えている存在」という極めて大雑把な定義は示すのだけど、では、「どういうのが誇大なの?」「どこまでが適正なの?」と思うわけである。判断基準とか、そういうものを示すことなく、ただ「この人は誇大自己症候群」とだけ連呼されても……。さらに、親の過保護や虐待、世間のヴァーチャル化などによって育成される、と言ったと思ったら、発達障害も原因になる、と言い出したり、さらに一世を風靡した経営者や、有名スポーツ選手が起こした事件を出して、社会的な成功によって万能感を醸造したと言い出す。さらに、近年、犯罪の質が変わった、という一方で従来の暴走族が警察などを相手に危険な暴走を繰り返すのも、それをすることで万能感を味わっているから、という。これを読んでいると、結局、何でも誇大自己症候群の原因になり得るし、どんな人だって「誇大自己症候群だ」とレッテルを貼ることができるんじゃないの? という感じになってくる。判断基準とか、そういうものを示すことなく、ただあっちにふらふら、こっちにふらふらと話がブレまくっているだけ、と感じるわけである。
そして、本書の中で出てくる「誇大自己症候群」の人の事例は、本当に信頼できるのか? という問題。
カリグラ、ネロ、織田信長、豊臣秀吉、チャーチル、ビル・クリントン、ニーチェ、ブッダ、シュティルナー、アウグスチヌス、監禁王子、小林薫、宅間守、三島由紀夫、檀一雄、バラク・オバマ、ドナルド・トランプ、ワグナー、サルトル、大王製紙の元会長(会社の金でカジノ行ってた人)、ビル・ゲイツ、ジョージ・ソロン、ニック・リーソン、山崎晃嗣、ヘミングウェイ、横井英樹、O・J・シンプソン、マイク・タイソン、マハトマ・ガンジーなどなど……
これはすべて、本書の中で著者が「誇大自己症候群」というレッテルを貼り付けた、著者があったこともない人間である。それぞれのエピソードを持ち出して、このようにして誇大自己症候群になったのだ、ということを述べるのだが、巻末の参考文献を見るとせいぜい1冊か2冊、自伝とか評伝を読んだだけである。つまり、多角的に、その人物の成育歴などを調べたわけではない、ということだ。例えば、ドナルド・トランプ氏についての論拠は、1987年に刊行された氏の自伝。しかし、この自伝について、執筆を担当したライターが「あの書は嘘だらけ」と告白したのは記憶に新しいところ。
まぁ、積極的に嘘をついたケースは少ないかもしれない。しかし、結果的に「事実ではない」ことは少なくないだろう。例えば、ビル・クリントン氏についた部分では次のようなことを言う。少年時代、肥満児で運動神経も悪く、女の子からも全く相手にされなかったクリントン氏。しかし、そんな時代に、ケネディ大統領と会う機会があり、そのとき、自分も同じような存在になると決めた、という。冴えない少年がそんなことを言うのは誇大自己症候群だ、というわけ。でも、これはどこまで正しいのだろう? 冴えない少年だった、ケネディにあった、というのが嘘とは思えないし、おそらく、その邂逅であこがれ、ターニングポイントになったのも事実だろう。でも、本当にその時、「自分もなる」と決意したのだろうか? これを語ったのは、大統領になった後である。人間というのは、自分の記憶すら、自分に都合の良いように書き換えることがある、というのはよく知られたこと。「なりたいな」と思った、というのが、実現の可能性が高まる中で、当時からなるんだと決めていた、という風に自らの記憶を書き換えた、ということがあるかもしれない。積極的な嘘ではないにしろ、こういうものをもって「過去からこうだった」というのは危うい論法と言えよう(一応、言っておくとクリントン氏が本当に子供時代に、なるんだと決めた可能性だってある。ただ、内心の問題であり、かつ、記憶が曖昧というのを考えみると、本人が言っていたからと言って絶対にそうだ、と断言するのは不可能、ということ)
そもそも、先に書いた本書で事例が出る人々について、著者は会ったことすらない。自身の著書にしても、はたまた、様々な文献記事にしても、どこまで正確なのかわからない。それをもって、こうだ、というのは問題と言えるだろう。
最後に、先に書いたように「親の過保護によって」「親の虐待によって」「愛着生涯によって」「発達障害によって」「子どものころ、優等生だったから」「仕事で優秀な結果を出したから」などなどと次々と誇大自己症候群の原因を挙げていくのだけど、じゃあ、そんな人がいなかった時代、地域ってあったのかいな? という気分になってくる。著者は、ネットとか、そういうものによって人間関係が希薄になって、とかいうのだけど、虐待とか、そういうものはむしろ人間関係の深かった昔の方が多かったのだし(虐待そのものの統計はない。しかし、嬰児殺とか、親による子殺しなど虐待の結果の事件といえるであろうものは昔の方がはるかに多かった) また、昔はそんなに親の教育が立派だったのか、というのも疑問で、広田照幸氏の『日本のしつけは衰退したか』や、はたまた、先に書いた大倉氏の著書などを見れば、子供は親の所有物でまともな教育などもせず、ただ放置したり、場合によっては強制的に労働させたり、というのも多かったことがわかる。著者のいう「昔」は本当に存在したのだろうか?
ということで、そもそもの定義が曖昧なため、何にでもレッテルを貼ることができるだけだし、しかも、克服云々にしてもそんな時代がそもそもあったのか? という疑問が浮かぶだけ、という評価にならざるを得ない。
というところまでが直接の感想なのだけど、本書を読んでいてそのほかの部分で思ったことを1つ。
著者は、少年犯罪の質が90年代から変質した、というのだけど、著者が京都医療少年院に勤務するようになったのは1993年から、だとのこと。「犯罪の質」なんてものは、そもそも統計とかで測れるものではないし、基準もないもの。私は「実感」というものを全く信頼していないのだけど、93年からの勤務しかしていない著者は、そもそも「以前の少年事件の犯人」とのやりとりもほとんどない、ってことになる。それでどうして「質が変わった」とか言えるのか? と。
著者は『脳内汚染』シリーズと言えるような書籍なども書いているけど、過去とは違っている、というのは「過去はこうだったはず」という実感ですらない想像で語っているのではないか、ということを考えてしまった。
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