(書評)「衣食足りて礼節を知る」は誤りか 戦後のマナー・モラルから考える

著者:大倉幸宏



戦後、日本では急速な経済発展を遂げて豊かさを手に入れた。しかし、その経済発展によって規範意識は低下し、そのモラルは悪化してしまった。近年、そのような言説をよく耳にする。その一方で、東日本大震災の際の行動など、海外から高く称賛された例もある。果たして、日本のモラル・マナーは高いのか? それとも低いのか? そのような中、本当に日本のモラル・マナーは低下したのか、そして、変化しているとしたらどのような理由によってなったのかを考察する書。
以前に読んだ『「昔はよかった」と言うけれど』の続編的な位置づけの書。前作は、戦前の事例を紹介しているが、本書はタイトルの通り、戦後を舞台としている。
第1章は前作と同じように、戦後、昭和20年代、30年代の様々なものについての評価、記事といったものを紹介する。前作でもそうだったが、本書でも、この時代の、文字通り、傍若無人な様子が描き出される。ただ、前作の場合、各種テーマに分けて、過去の状況を綴るのみだったのが、本書では第2章で、「花見」を題材に、年代別にどのように評価されてきたのかを比較し、そこから変化の様子を考察する。第1章の内容ではないが、昭和20年代、30年代くらいまでは、毎年、大量のごみがまき散らされ、そして、泥酔客による喧嘩などのトラブルも山の様。それが、昭和40年代くらいから減っていき……という変化を見せているのがわかる。そして、3章以降では、その間にどのような施策がとられたのか? さらに、そのメカニズムは何なのか? というところを考察していく、という形になっている。
内容としては、犯罪における「原因論」と「機会論」を応用しての考察。そして、その中での、「世間」を巡る議論を通すことによって、かつては職住が一致する狭い村社会の中で過ごしていたため、電車とか、旅行先であるとか、そういうものは「赤の他人」となる。そして、そのため、仮に傍若無人なふるまいをしても「恥ずかしい」という気持ちにならなかった。しかし、メディアの発達。職住の分離。そういうものによって、「世間」の概念が広がったことが原因ではないか? という結論。例えば、電車の中で座り込む若者、なんていうのを取り上げて「マナーがわかっていない」とか言うけど、彼らもじゃあ、他の客が乗り込もうとすればちょっと横によけるとかはしている。つまり、彼らなりの配慮はしている。ただ、その配慮、世間などの感覚が、批判する側のそれとズレているだけ、というのもその通りだと思う(で、どうでも良い話だが、この話を見て思い出したのが、正高信男氏の『ケータイを持った猿』に載っていた、「ルーズソックスを履いてみたら、スリッパみたいな履き心地だった。だから、ルーズソックスを履いた女子高生は、常に自宅にいるのと同じつもりで電車の中などで座り込んだりするんだ!」とかいう珍説。こちらも「世間」についての話なのだけど、説得力がまるで違う)
その他、個人的に印象に残ったのは、「原因論」「機会論」の中で出てきた道徳教育の意味。昭和30年代、あまりにひどいマナーの中で、学校での道徳教育が行われた。しかし、あまり浸透することがなかった、というものなのだけど、その理由として「これはダメ」と知識として理解していても、咎められたりすることがないので意味がなかったのではないか、というのは目から鱗。で、それを考えた場合、今、政府が進めている「道徳の教科化」ってやっぱり意味がないんじゃないか、と思える。今の人々、子供がそういう知識を持っていないとは思えないもの。イジメ対策とかなら、むしろ、学校という環境の中では犯罪であっても「イジメ」として学校内だけのルールで処理されるような治外法権状態とか、そもそも教員が忙しすぎて、そういう対策にかける時間がなくなってしまう、という状況打破の方が意味があるよなぁ……とね。
何を求めるのか? によっても多少、評価は割れるような気はする。というのは、前作のように、様々な当時の事例を読みたい、という人もいるかも知れないから。ただ、マナーなどの変遷について一つの示唆をくれるのは間違いないだろう。

No.4402


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