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(書評)となりの少年少女A 理不尽な殺意の真相

著者:草薙厚子



国内6件、米国1件の少年犯罪を題材として、少年犯罪と発達障害の関係を綴った、とされる書。ただし、その事件のほとんどは、過去に、著者が書籍の題材とした事件である。
最初に述べておくと、私は著者に対しては、極めて否定的な視点で見ている。本書についても、その部分の、ある意味では偏見が入っているだろう、という点は先に述べておく。その上で読んでいただければ、と思う。
著者の書で、少年犯罪と発達障害、という部分にクローズアップしたもので、『大人たちはなぜ、子どもの殺意に気づかなかったのか?』を読んだときに、まず思ったのが、「なぜ、発達障害を語るのに、センセーショナルに報じられた事件のみを題材にするのか?」ということだった。本書でも、全く同じことを感じた。
で、その書の感想と重なるのだけど、本書でも「事件の原因は発達障害ではない」という言葉は述べている。でも、本書を読んでいると、その真逆、「発達障害は危険な存在である」という風に読み取れてしまう、という問題がある。
というのは、本書で出てくる事件についての文章というのは、このような形をとっているため。こういう事件が起こり、犯人の少年は発達障害を抱えていました。この人の発達障害はこういう問題を抱えていて、しかし、周囲の人間は適切な対応を取らず、このように接していた結果、問題が悪化し、事件に至りました。つまり、これを読んでいると、発達障害は適切な対応を取らないと危険である、という風に見えてしまうのである。
で、著者が綴る、それぞれの事件における周囲の環境なのだけど、そもそも、発達障害関係なく、「ひどい環境じゃないか?」と思えるものが多い。本書に綴られた環境が、本当にそうだとして、ぶっちゃけ、発達障害関係なく、そんな環境で育ったら性格が歪むだろう、という感じのものが。発達障害だと、こういう傾向がある、というのだけど、そこまで極端でなくとも、誰にだって興味対象の偏りとかあるし、ちょっとした言葉のすれ違いによる人間関係のトラブルなんて起こるもの。ところが、各章で、キーワードとして「発達障害」を入れることで、「誰にでも起こること」を弱め、「発達障害の結果」という印象を強くさせてしまっているのだ。
そもそも、作中では、「この事件の犯人は発達障害だった」「この事件の犯人も発達障害だった」と言っていくわけだけど、発達障害の診断というのは極めて見極めが難しく、専門家でも意見が分かれることが多いもの。例えば、作中で、04年の佐世保で起きた小学生による同級生殺害事件の犯人や、00年に豊川で起きた主婦殺害事件などもその例として挙げている。しかし、精神科医の中には、それらは基準を満たしておらず、誤診だった、と言っている人もいる。私は、専門家ではないので、どちらが正しいのかはわからない。しかし、そのくらい微妙な問題である、というのに、安易に発達障害であった、という点に結び付けているように思えて仕方がないのである。
本書のあとがきは、次のような一言で締められる。

「一日も早く発達障害に関しての正しい理解が進み、多様性を認める社会が実現し、今後は不条理な少年事件の犠牲者がいなくなるよう、心から願っています」(212頁)

発達障害などについて、ケアが必要である、ということは間違いない。けれども、それは、犯罪を防ぐため、ではない。発達障害を抱えている人が、社会に出て、苦労しないため(苦労をするとしても、何もしないよりは楽になるため)だろう。そのために必要なのは、「この事件の犯人は、発達障害でした」ということではないと思うのだが……。
そういう点で、どうにもネガティヴな感想を抱いてしまった。


で、ここまでも、私の否定的な視点から、という部分が多く入った文章を綴ってきたわけだけど、個人的に一番、著者に対する嫌悪感を覚えたのは、第2章の酒鬼薔薇事件について書いた部分。
この事件の犯人について、著者はアスペルガー症候群(発達障害)だ、という診断などもあるのに、少年院での矯正教育は愛着障害へのケアだった。被害者遺族の感情などを理解できないなどがあったのに、そういうケアがされないままに出てしまい『絶歌』などを刊行するなどに至った。『絶歌』の中で、矯正教育などについて何も書かれていないのが、失敗したという証拠だ、というような形で話を綴る。
先にも書いたけど、私は精神医学とかは素人なので、そうなのかも知れない。けど、そうではない可能性だってあるんじゃないかな、という風にも思えてならない。
浜井浩一氏や、山本譲司氏らが主張してるのだけど、犯罪者の更生にとって、反省と同じくらい必要なのは、居場所、生活の場。つまり、刑務所を出たら、自分で金を稼いで生活をしなければならないわけで、そのためには就職をしなければならない。反省をしていたって、金がなくて、住む場所も、食べ物もなければ「死なないために」事件を起こさざるを得ない、という風に追い詰められてしまう、というわけだ。少年事件の犯人について、情報を出さないようにしよう、というのは、若くて、就職のチャンスなども多い人の更正の可能性を高めよう、という部分もあるわけである。
ところが、この事件については、著者が書いた『少年A 矯正2500日全記録』を筆頭として、「酒鬼薔薇は今!」みたいな感じで、何度も週刊誌などが題材にしている。ルールが守られている、とは言い難い。就職をしようにも、そんな状態では就職も出来まい。そういうことをやられた結果の自暴自棄とかだって、十分にあるのではないだろうか? その辺りについて、全く著者は無自覚なのだ。
別に、私は、この犯人について擁護するつもりはない。しかし、少年院を出た後も執拗に追いかけ、その個人情報をバラまいている著者が、各章の最後にとってつけたように綴る「更生を願っています」という言葉に虚しさを感じる。

No.4812

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