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(書評)第六天の魔王なり

著者:吉川永青



天正10年6月2日、本能寺。織田信長の前に現れたのは水色桔梗、明智光秀の軍勢。非道と罵られながらも、「魔王」としておそれられながらも、自らを捻じ曲げてきた信長。それは間違いだったのか? 信長は、自らの半生を振り返る……
ということで、織田信長の人生を描いた歴史小説。著者の作品って、どちらかというと、マイナーな人物を主役にした作品が多いのだけど、超メジャーな人物をどう描くのか、というのがまず最初の興味として読み始めた。
まず、最初に書くと、著者の作品、全てを追っているわけではなくて、今川義元を描いた『海道の修羅』とか、朝倉義景を描いた『奪うは我なり 朝倉義景』などは未読。もしかしたら、そちらで描かれているのかもしれないが……
信長の「民を守る」「天下を平定し、平穏な世にする」というような心の底からの目標。ある意味、コアとなる部分があまり描かれていないのに、それを前提として話が進むためにちょっと入りづらさを感じた。そこを乗り越えれば、比較的コンパクトな分量、なんていうのもあってスラスラと読むことが出来たのだけど。
この作品、凄く雑にまとめると、「信長はなぜ魔王となったのか?」というところだろうか。
天下を平定し、人々が安心して暮らせる世にしたい。そのことを何よりも考えていた信長。配下にも心を配り、少しずつ、その力をつけていく。だが、その中で起こった義弟・浅井長政の裏切り……。「救い」という言葉を掲げ、人々を駒として現世の権力闘争に明け暮れる宗教勢力。それらとの戦いの中で、「情」というものの弱さ。長政は、「情」というものに固執した結果、朝倉へと組し、平穏への道を喪った。比叡山は、「救い」「仏教」という名の「情」により、生きながらえてきたからこそ、現在の腐敗へとつながった。だからこそ、焼き討ちせねばならなかった。そして、勢力が拡大する中で、部下たちの中からも……
信長評として、よく言われるのは、元々、苛烈な性格であったが、それが、だんだんと……みたいなもの。本作の信長も、やっていることはだんだんと苛烈になっていく。しかし、それは長政の裏切りに端を発し、「情」の弱点を見つけたから。とにかく、最大目標は、平穏な天下を築くこと。そのためには、「情」を切り捨てねばならない。だが、それはすればするほど、「恐れ」からの裏切りなども引き起こす形になり、ますます、それを切り捨てた形へ行かねばならない、という悪循環へも繋がっていく……。戦の描写とかは、かなりアッサリと流され、例えばキリスト教関係の話とかは全く出てこない。しかし、そういう部分を削り、全てを信長の一人称視点で描くことで、信長自身が自らにギャップを抱きつつも、苛烈になっていかざるを得なかった、という主題の部分をクローズアップした、ということなのだろう。戦描写とかを楽しみにすると、物足りなさを感じるところもあるのだろうが、こういう切り取り方の信長の描き方は当然にあってよいと思う。
そして、その光秀の裏切りの理由もまた、そこに繋がっていく。清廉潔白であり、自身のことを見透かしてもいるような光秀。だからこそ、その諫言が時に癪に障り、激しく折檻したことも。だが、それでも、やはり、光秀は信長をしっかりと見据えていて……。ただ、それもまた、「情」であり、それが全てを滅ぼした、というその後を思うと「情」の弱さ、というものを感じざるを得ない。

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